「話せばわかる」というのは、半分は真実だが、半分は嘘だと思う。
「話せばわかる」人々というのは、論理と常識が通じる人々のことである。世の中には、論理と常識が通じない人は多い。
何年か前には『平気でうそをつく人たち』【※1】という本が、現在は『バカの壁』【※2】という本が大ベストセラーになっているのは、多くの人々が「話してもわからない人々」に悩まされている事実を示していると思う。
「のれんに腕押し」「ぬかに釘」「馬の耳に念仏」ということわざもあるように、大昔から人々は「話してもわからない人々」に悩まされている。
わたしも悩まされた経験がある。ちょっとしたトラブルがあり、ある人の間違いに気づいて進言したところ、逆ギレされてしまったのである。言い方が失礼だったのかと思い自省してみたが、思い当たらない。また、たとえ言い方が失礼だったとしても、進言の内容は議論しなければならない重要課題だったのである。わたしの言い方が悪いというのはさして重要な問題ではない。
説明の仕方が悪かった可能性もあると思い、論理だてて説明を試みたが、ますます反発して不機嫌になり、プイと横を向く。あげくの果てに、自分は間違っていないという言い訳をするために嘘までつきはじめた。
嘘をつくと、物事のつじつまが合わなくなってくる。つじつまを合わせるためにまた嘘をつく。嘘の無限ループである。
その人は饒舌な人だったので、次から次へとよくもまあ思いつくものだと思うほど嘘をついた。何のためにそのような嘘をつくのかというと、問題解決のためではない。単に自分のエゴ(傲慢)を守るためだとわたしは判断した。
その人は社会的地位もあり饒舌ではあるが、真に頭のいい人ではなかったようだ。
というわけで、わたしの場合は、その人には何を言っても無駄と判断し、さりげなく遠ざかったのである。ただ、その人にはある種の才能があり、他者の意見を参考として自分の頭で考える作業をすれば、それなりの人になっていたと思うところもあり、非常に残念に感じたことも確かである。
で、その人は結局、話してもわからない人ということで、トラブルの相手から訴訟を起こされてしまった。
そんなこともあって、わたしは長い間、問題解決よりも自分のエゴを守ろうと必死になる人々の存在が不思議だった。彼らは、結局は自分のためにはならないにもかかわらず、異様に自分に固執するのである。
それが「ナルシシズム」「自己愛性人格障害」「サイコパス【※3】」と関係があると知ったのは、しばらくしてからだった。つまり、彼らは外部を認識できない人々だったのである。外部を認識できない人々は社会を理解できない。
社会を理解できない人々は、社会においても自分勝手にふるまいがちである。もし、そのような人々が政治家や医師や教師になっていたらどうだろうか。ゾッとする。しかし、実際には、そのような人が政治家になったりしているのが事実である。ヒトラーのように。
「嘘は泥棒の始まり」というが、ちょっとした見栄っ張りの上乗せ嘘や、人間関係を円滑にするためプチ嘘など、可愛げがある嘘はいいのだが、「自己正当化」のための嘘は「悪」につながる可能性があり、厄介なものだと思う。平気で「自己正当化」の嘘をつく人々には気をつけた方がいい。
彼らは「自己正当化」「自分の優越性の確保」のためには、平気で他者を悪者に仕立て上げ犠牲にする。なぜなら、外部を認識できないために、他者の迷惑を想像することができないからである。極端まで行ってしまえば、平気で殺人もできてしまう。
彼らにとって、他者は自分のために存在しているものに過ぎない。ただ利用すればいいだけの存在なのだ。
人間は、まっとうに外部を認識できるように成長しなければ何十歳になろうとも人間にはなれないものなのである【拙稿「012.人間とは何か」参照】。まっとうな人間になれなかった人のことを「悪人」という。
「悪」の問題は、大昔から人間にとって重要な問題だった。宗教や神話のメインテーマである。心理学者や社会心理学者の研究の対象にもなっているが、まだ処方箋は発見できていないという。
英語では、悪(evil)という字は、生きる(live)という字のつづりと逆になっている。『平気でうそをつく人たち』の著者M・スコット・ペックは次のように述べている。
『悪は生に対置されるものである。生命の力を阻むものが悪である。簡単に言うならば、悪は殺すことに関係がある。(中略)つまり、不必要な殺し、生物的生存に必要のない殺しを行うことと関係している。(中略)これは肉体的な殺しだけを言っているのではない。悪は精神を殺すものでもある』
で、注目しておきたいのは「悪は精神を殺すもの」という部分である。実際の殺人も恐ろしいことだが、精神の殺人も恐ろしいものだと思う。
精神の殺人は目に見えない。したがって、人はそれを認識できないことが多い。そこが恐ろしい。わたしは家庭でも学校でも会社でも実際に行われていると思う。
恐ろしいといっても、いたずらに怖がっていても仕方がないことである。それが事実なのだ。わたしたちにできることは、戦うしかないのである。
で、戦うためには、敵を知っておくことが必要だ。敵の特徴とは、次のようなものである。
●どんな町にも住んでいる、ごく普通の人。
●話のつじつまが合わなくても平気である。
●自分には欠点がないと思い込んでいる。
●他者をスケープゴートにして、責任を転嫁する。
●自分への批判にたいして過剰な拒否反応を示す。
●立派な体面や自己像に強い関心を抱く。
●知的な偏屈性(他者の意見を聞く耳をもたない)。
●自分は選ばれた優秀な人間だと思っている。
●他者に善人だと思われることを強く望む。
(『平気でうそをつく人たち』より抜粋要約)
以上の要素が当てはまる人々は、悪人とはいわないまでも「邪悪」な人々である。普通は距離をもって関わっていればいいが、何かトラブルがあったときはなかなか手ごわいので、対処するときの参考になればと思う。また、自分がそのような人間になっていないかどうか、チェックするのもいいと思う。
これらの要素は、自分の精神を殺す要因ともなるのである。自分の精神の成長をさまたげているのだ。
で、そこで誰でも考えることだと思うが、そのような邪悪な人々の存在意義とは何なのだろうということである。わたしは死刑廃止論者ではないので、殺人を犯すほどの極悪人が死刑という罰を受けるのは、やむをえないことだと考えている。
しかし、実際の殺人を行うことはなくても、子供や家族をはじめ他者に対して精神の殺人を行っているような人々を見ると、テレビ番組の『桃太郎侍』ではないけれど、「てめぇら人間じゃねぇ、たたき斬ってやる」という決めゼリフでも言いたくなってしまうことがある。
そのような邪悪な存在について、ファンタジー作家のトールキンには思うところがあったらしく、『指輪物語』で指輪(悪)を捨てに行くフロドを邪魔するゴラムという存在を描いている。ゴラムは元はフロドと同じホビット族だったが、指輪にこだわる邪悪な心のせいで醜い姿になってしまっている。フロドたちと力で勝負すれば負けるに決まっているほど弱いが悪賢く、いつ邪魔をしてくるかわからず、厄介な存在だ。
ゴラムなど殺してしまえばいい、というフロドに対して魔法使いのガンダルフは、次のように言う。
「死ぬべき者、生きるべき者。お前にそれが決められるか。生と死を軽率に語ってはならぬ。賢者といえども未来は見えぬ」
(映画『ロード・オブ・ザ・リング』より抜粋要約)
で、物語の最後は、ゴラムの邪悪によってフロドが自分の弱さを越え、結果的に目的を達成することができるという結末になっている。
旅の途中、何度も指輪の誘惑(悪)に引き込まれそうになるフロドは、ゴラムの邪魔(悪)によって悪を対象化し、自分の悪から目覚めるきっかけを与えられたという解釈も可能な構造になっているのだ。
これは、かなり示唆に富んだ表現だと思う。悪と戦うという「試練」が、人間にとっては重要なアイテムと考えることもできる。
わたしたちは「悪」を嘆いてばかりはいられない。「悪」が向かってきたら立ち向かわなければならない。また、自分が「悪」にならないよう自省しなければならない存在なのかもしれない。
人間という存在に「試練」がセットになっているというのは、興味深いポイントだ。
(2004年3月5日発行)